人気のない長い廊下を歩きながら、湿気で首筋に貼り付く髪を払った。それでも拭い切れない不快感。
窓から外を見遣ると、雲が立ち籠めていつもより空が低く感じる。こんな日は…


――海より深い愛まで潜れない 空より高い理想まで飛べない――


どのぐらい集中していたのだろう、ふと気付くともう定時を過ぎていた司令部内は人も疎らで。
そもそも執務室に詰めていたので元より室内には自分一人なのだが、時折顔を見せる部下も無く、建物内の気配もひっそりとしていた。
自分の怠慢を急かす副官は不在、急ぎの書類も無く、いつもより早い時間だが今日はもう帰ってしまっていいようだ、それなのに。
なぜかこんな時に限って、動き出すのが億劫なまでの倦怠感に身を包まれていて、首を傾げた。

「おい無能、まだ居たのかよ」
「なんだ、薮から棒に人を無能呼ばわりか」
「外、見たか?天気」

いつも通り、ノックも無い執務室への侵入者に言われて初めて気付いた天候に顔をしかめる。成程倦怠感の理由はこれか。
焔の錬金術師は、しかし雨の日は無能が定説であった。それ以前に元より低気圧に弱い体質のようで、こんな日は調子が狂うのだった。

「おかしいな、今日はよく晴れていたと思ったのだが」
「あれから何時間経ったと思ってんだよ、あんた集中すると周り見えないよな…まあ俺もか」

そう言いながら集中の結果、こんな時間まで居座ってしまったのであろう閲覧室の鍵を返してきた。
じゃ、と踵を返しコートを羽織る後ろ姿に、呼び止めようと声を掛ける。

「私ももう帰るよ、一緒に出よう。どこか食事にでも行こうか?」

立ち上がって自分のコートを羽織り、ぼんやりする頭を左右に振って前を向くと、怪訝な顔でこちらを見る恋人。
働かない頭で何かおかしなことでも言っただろうかと思案していたら、漸く開いた口からは思いがけない言葉。

「いや…大佐の家でさ、台所借りていい?俺なんか作るよ」


まだ開いている商店に立ち寄ると必要最低限の食材を買い込み、並んで家路を急いだ。得意料理だと言うシチューを作ってくれるらしい。
荷物で彼の両手が塞がっていて振り払われないのをいい事に、隣を歩くその旋毛に掌を落としかけて、ふと気付く。

「おや、君少し背が伸びたんじゃないのかい?」
「うっそ!?やった!!」

ぱっと顔を上げると、見た事無いような不思議な表情で見上げてくる。立ち止まり、荷物を片腕に抱え直すと、左手を伸ばして軍服の胸元を軽く引かれた。

「うん?」

彼の背に合わせて俯きながら、どうした、と言いかけたその唇は最後まで言葉を紡ぐ事なく、不意に塞がれた。


「ほんとだ、今あんまり背伸びしなかった」

やわらかくやさしい、今までに見た事の無いその表情に思考を奪われる。


「なあ、腹減ってんだけど俺!置いて行くぜ」

彼によって止められた私の時間は、彼の声によってその動きを取り戻した。
先を行く少年にはもうさっきのような雰囲気は無く、いつも通りのぶっきらぼうな口調で急かしてくる。

あまりの小さな変化に気付かなかった、いや、気付かないようにしていたのかも知れない。
身長だけじゃない、纏う雰囲気や態度、自分への気持ち、まだ子供だとばかり思っていた恋人の変化に、どうしてか少しの寂しさを感じた。


「ああ、早く帰ろう。雨が降る前に」


話題:二次創作文